「真実をお話しします」
最近、SNSや動画サイト等で「真実をお話しします」という文言を見ることが多くなってきた。経験上は炎上したり揉めごとを起こしたりしたインフルエンサーやYouTuberがなにかしらの意見を表明する際に使っているように感じられるが、いざ内容を見てみると真実でもなければ事実でもないことが多い。言葉は生き物なので多少の変化は受け入れないといけないが、どうも私の考える「真実」という単語の意味とは異なるようだ。
そんなことを考えていると、よく似た言葉に「事実」があることに気づいたのだが、その差はなんなのだろうかとさっそくgoo辞書で調べてみた。
- 真実
- うそ偽りのないこと。本当のこと。また、そのさま。まこと。「—を述べる」「—な気持ち」
- 仏語。絶対の真理。真如。
- 事実
- 実際に起こった事柄。現実に存在する事柄。「意外な—が判明する」「供述を—に照らす」「—に反する」「—を曲げて話す」「歴史的—」
- 哲学で、ある時、ある所に経験的所与として見いだされる存在または出来事。論理的必然性をもたず、他のあり方にもなりうるものとして規定される。
「真実」の解釈
私の解釈では、真実というのは仏語の定義からもあるように、真理の側から見たときの絶対的な事柄で揺るぎないものである。不変的法則とも言える。例えば、水は0気圧下で摂氏100度で沸騰するが、これは物理・科学的に真実である。
しかし一方で、「真実」という言葉を嘘偽りのないことの側面から捉える場合には、観測者本人が、それを真と考えていればそれが真実となりうる。その背景は様々あるが、置かれている環境やこれまでの経験だけでなく、そう思いたいという気持ち、そう思った方が都合がよいという理由から、ある事柄を真と捉えることによって、それがその人にとっての真実になるだろう。
つまり、「真実」は人それぞれの尺度や正義、感情によって揺らぐものであって、本質的な正しさというよりも、信じることを証明するための理由や根拠になってしまう危うさもある。
「事実」の解釈
では「事実」はどうだろうか?これは「真実」よりも簡単で、実際に起きた事柄だけを示している。
例として「N氏は1月24日午前10時にコンビニに来店したのち、新聞を購入した」や「A氏はY氏に金銭を要求したが、Y氏はA氏から過去に貸した金が返却されていないことを理由に拒否した」等のように、状況を客観的に捉えており、誰が読んでも同じ解釈になる事柄を述べたものである。
また、事実には文化的・人道的な正義や正しさについては言及されず、起きていないことや可能性の話を持ち出さないところも特徴的である。
「真実」を語る人からは遠ざかるべし
「真実」は簡単には得られない
繰り返しこれは私の意見であることを強調した上での結論だが、おそらく「真実」というものはこの世の中には存在せず、あるのは「事実」の積み重ねだけだ。
それに真実とは得難いものである。そのあたりに落ちているものではないし、簡単に悟りの境地に至れるのであれば私も至りたいものだ。得難いもの(ないもの)を求めるがあまり、エコーチェンバー現象に陥ったり、陰謀論に染ったりしないように、普段から強い判断力を鍛えておくことも肝要だ。
例としてなにかしら政府に不満がある中で「インフルエンザは政府による人体実験」という情報を得たとしたらどうだろうか。否定できる材料がないからこれは真であると悪魔の証明を行ったり、あるいは打倒政府の仲間を得たりという中で、自分の意見が支持され続けると、「インフルエンザの流行」という事実が自分にとって都合のよい「政府による人体実験」という真実に捻じ曲げられていくことも考えられるだろう。
近年は物価高と不景気が重なることによってあらゆる方法で金を得る手段が編み出されてきている。「真実」はそのようなビジネスのためのカモを釣るエサとしても機能しているのかもしれない。
加熱するメディア表現としての「真実」
メディアの表現も加熱する一方だ。どんどん強い煽り文句を使い、エンゲージメントを増やし、収益化に繋げている。「事実」よりも「真実」のほうが本質さと物々しい空気を感じさせ、視聴者の興味も掻き立てられるだろう。
しかし、そういったメディアでの「真実」は投稿者の主観や感情の影響を受けており、「真実」という言葉を「公表していなかったお気持ちや裏話を述べること」の意で使っているようにも感じられる。
さてそれではなにか不祥事を起こした際に会社や政府はどうしているかと見てみると、基本的になにごとも「事実」を記載しているはずだ。「ただいま事実確認をしております」や「〇〇という事実がありました」などと、あくまで実際に起きたことだけを述べている。これは公な場では真実ではなく事実をもとになんらかの対処や対応が迫られることも影響しているだろう。
「真実」がないわけでもない
しかし「真実」と言えるものがまったく存在しないわけではないし、そんな世界はあまりにも寂しすぎると言わざるを得ない。
例えばキリスト教における黄金律(人にしてもらいたいことを自分も相手にする)はほかの宗教や文化圏でも同様に存在する概念で、人間関係を円滑にするための心得として、人類の歴史上広く認められている。
こうした「真実」は人類の長い歴史の中でようやく見つけ出したものであって、その辺にやすやすと転がっているものではないと思うのだが、どうだろうか。