愁傷ではなく寂しい

先日祖母が亡くなった。齢九十を超えて大往生であった。幼少のころは親の代わりによく面倒を見てもらったことと、怒ったところを見たことのないような優しい人だったことが思い出され、実に良き祖母であったように感じる。

感慨に耽るのも大事ではあるが、やることはやらねばならないので、早速通夜ということになり、お寺さんがやってきた。

雅な人

祖母の菩提寺の住職は、祖父の葬儀のときにもお世話になった人で、本山で修行を積んだこれまたエリート坊主なのだが、嫌味なところがなく、所作も美しく、話し方も和やかで、かつ読経には迫力があり、まさに雅な人なのである。

そんな住職は通夜場に現れるなり「このたびは大変お寂(さみ)しゅうことでございました」と述べた。

ははあ、「お寂しゅうございました」というのか。なんて風流であろうか。ほかの親族の葬式にも出たことはあるが、「ご愁傷様でございました」と言われることのほうが多かったように思う。

goo辞書によれば、「愁傷」とは:

  1. 嘆き悲しむこと。また、その悲しみ。
  2. 相手を気の毒に思うこと。

なのだが、「寂しい」とはまた意味合いが異なる。知人・友人・親族が死ぬことで我々はその関係が否応なしに断ち切られる。それは嘆いたり悲しくなったりというよりも、寂しくなることのほうが大きいのではないか?とも考えさせられたのだ。

そういえば

2011年にスティーブ=ジョブズが亡くなったときも、ビル=ゲイツは「I will miss Steve immensely.」とポストしていた。死は悲しいことではあるが、その人がまだ我々と同じ世界に生きていたなら、きっと世の中はもっと楽しくなっていたはずだと思わせるほうが強く、それが寂しいという言葉に表れているのだろう。

言葉というのは奥が深く、まだまだ考えさせられることが多い。