装飾されている文章が増えてきた
ウェブの発展によってはびこり始めた怪しいマーケターたちはこれが重要と言わんばかりに、色付き文字や太字、下線(特に黄色の)を濫用する。学校教育で教師が「ここテストに出るぞ」などと言いつつ、重要なところに印をつけてくれたのと似たような印象を受けるが、誰にでもそういう経験があるので、話し手が重要だと思った箇所に文字装飾をすれば特に伝えたいことであるということが読み取りやすい。
最近では本をパラパラとめくってみても太字や下線を使用しているものが散見される。ビジネス書やウェブ関係の書籍は特にその傾向が強いようで、図もふんだんに盛り込まれていて、とても賑やかだ。文章作成にこうした装飾という手法が受け入れられつつあるのか、文章力が低下してきているのか、私のような一介の素人にはわからないが、一般企業のブログ記事やメールマガジンにも採用されつつあるようだ。
結局頭に入らない
だが、こういった文字装飾を使った文章ほど頭に入らないことが多く感じるのは私だけだろうか?強調して印象付けたいということはわかるのだが、そもそも文章力に乏しいことが多いし、装飾も相まってそっちに目が誘導されてしまい、文章の読み取りを阻害する。
それに日本語はかなり曖昧に書ける言語で、足りない部分は読み手任せにすることができるのだが、文字修飾に執心してそれに甘えていると、本人の中では事象が繋がっていても、読み手にとっては結び付かないことがある。装飾したいほどの結論はごもっともなのだが、そこに至る過程が自己完結していると意図が伝わらず支離滅裂に感じられることもある。
そうした読み手任せの文章は危険な勘違いを生み出すこともある。相手に解釈を委ねることになるので、多くの場合その人にとって有利な解釈をするだろう1。企業が発信するような文書ではトラブルに発展していらぬ不利益を招くことになるし、見る人が見れば担当者の文書作成能力が知れるので、わざわざそんなことは声を大にして言わないが、その程度の教養しか持たない会社なのだろうな、と感じてしまう。
結局のところ
足りない文章力は文字装飾ではどうにもならないし、本来解決しなければならないことを小手先の技術で誤魔化しているに過ぎない。最近では生成AIで人間を補助することもできるようになってきたものの、文書の最終的な責任を持つのは人間であることはこれからも変わりないし、生成AIが集合知であることを認識して使って、その真贋を判断できる側でなければならない。
テクノロジー自体があなたが抱える問題を解決することはなく、やはり人間的な努力が必要だ。“すごい人”はこの時代でも泥臭く知識を蓄え、勉強し、新しい物事に挑戦し続けている。しかし人間は責任転嫁が得意なので、「このAIでは満足行く文章が生成できない」とか「もっと目立たせることができれば伝わるはず」とか「〇〇でなんとかできないでしょうか」などと言う。
技術が発展して選択肢が増えたことはいいものの、痛みを伴う本質的なところから簡単に逃げられるようになってしまったが故の新たな課題なのかもしれない。
Footnotes
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似たような例としてマスク美人。隠れている部分の価値を勝手に最大化する。 ↩