カタカナ語に潜む罠
私は情報共有と会議は別物だと考えている。情報共有はなにかしら周知したいことを述べることであり一方通行が多い。他方、会議は課題解決のために双方向的な対話によって落としどころを見つけるものだ。したがって会議に呼ばれたとしても発言しない人は不要と考えているし、逆にそうなるのであれば呼んで欲しくはなく、あとで結果だけ教えて欲しい。
しかし、社内にカタカナ語を好んで使いたがる人がいるようで、情報共有も会議もミーティング扱いで、それが故に両者の区別がつかなくなっている節がある。今日に至っては別の部署から「50人が参加するミーティングがあって、参加人数が多すぎるのではないか?これは検討に値する」みたいな話が聞こえてきて、さすがに50人全員に発言権が与えられていて、意思決定に反映されるかと言われればそうではないだろうし、ほとんどの人にとってはあとから職制を通じて結論を伝えてもらえばいいので、なにが大事で抑えるべきことなのか判断できておらず、組織がうまく回っていないのだろうと推察する。
私は技術職で部下を持たないので気ままにやっているが、同僚は管理職になってから「これまで考えなくてよかったことも考えないといけなくなった」というし、父も現役だったころは「与えられたコマでやるしかないんだよ」と、家に帰ってくるなりビールを飲みながら愚痴っていたので、つくづく管理職というのは大変な役回りと思うのである。