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ついに弊社でも自部門の隣に死神部隊が結成された。この部隊は社長直轄であり、社内の業務整理を強い権限で実行可能となっている。業務を効率化できるのであれば法令と社則に抵触しない範囲であらゆることができ、誰の仕事をはぎ取るとか、誰を異動させるとか、あの人はどうであるとか、隣で様子を見ている私からしても今時の言葉で言えば結構エグいやりとりが繰り広げられている。
そうはいっても、これ自体はAIが一般利用できる程度の水準になってきたと同時に人間に求められることも徐々に変わってきたということでしかない。一部ではギュられる1という表現もあるが、AIの活動分野からもわかるように、特にホワイトカラーに対する風当たりが強くなってきており、今後AI以下の仕事しかできない人間はそう遠くないうちに置き換えがされていくだろう。
事務作業員は淘汰される
これまでは猫の手も借りたいといった言葉のとおり、工数が足りなければ人を投入するという人海戦術が行われてきた。しかし、AIを導入した職場ならすぐに気づくことだが、今のところ下手な人間を採用するよりもAIを利用したほうが費用対効果が高く、AIの結果を検証するにしても、シニアやベテランがひとりいれば事足りてしまう。
言われたことだけやる人間は淘汰される
実際に弊社でも起きていることだが、やる気はあったとしても言われたことだけこなしている人間は徐々に肩身が狭いことになってきている。会社員に求められる基本的なコミュニケーション能力や姿勢がいよいよ足切りとして明確になってきたようにも感じられる。
勉強ができない人は切られる
残念ながら生涯勉強なのである。就職したからもう勉強しなくていいなんてことはない。もういい大人なので誰も勉強の仕方なんて教えてはくれないし、宿題の提出を求められることもない。他人の人生なので強く干渉しようとも思わないし、今時は飲みにケーションで「お前やってるのか?やれや」などと言えばパワハラになってしまう。勉強しようがしまいが仕事の成果だけで判断されて、それは本人も気づかないうちに行われる。
いい気になって週末も遊び呆けていたら、いつのまにか同期や同僚と差がついてしまっている。どこで道を間違えたのだろうか?地頭のよさ?出身大学?上司に気に入られている?いやいや、勉強なのである。仕事ができる人は人知れず勉強もしているのだ。
悲しいかな、勉強していない人はいくらか会話すればコイツ中身がないなとすぐにわかってしまう。新卒ならまだ許されるが、歳を重ねるにつれて評価が厳しくなってくると、特定の部署に押し込められるか、頻繁に異動させられるという形でうすうす実感することになるが、これからはそんな悠長なことにはならないかもしれない。
適切な報連相ができない人は切られる
報告、連絡、相談の3つの頭文字をとって報連相だ。社会人にとってはPDCAと同じくらい馴染みのある言葉だ。これが案外中堅以上でもできないのだ。特に自分の見解や意見を述べずに判断を仰ぐようなコミュニケーションは価値がなく、人に聞くだけであれば誰にでもできるので、結局お勉強が足りないのである。
いい時代になったもので、こうした社会人の振る舞いとして抑えておいたほうがいい事柄に関してはあちこちで本になっている。インターネットやAIに聞いてもいいが、断片的にしか教えてはくれないので、体系的に学べる書籍の重要度は高まりつつある。数千円の自己投資で済むのであれば安い話なのだが、これができるのであれば苦労しない。
自走できない人は切られる
自走して遊撃部隊的に動いている人がなぜ遊撃部隊でいられるのか?それは知識や技能があり、適切なコミュニケーションが図れるのであれば、あとはビジネス課題に向けて走り出すだけだからだ。彼らは勝手に課題を見つけてきては対処する。物事の本質を捉えており、解決できるかどうかに関わらず根本の問題を理解しているし、現実的な落としどころも提案できる。
もしホワイトカラーの仕事を続けたいのであればいち早くこちら側に滑り込まないとならないが、意識や振る舞いはそう簡単に変えられるものではないので、危機感を持って行動しないと時間切れはある日突然やってくるかもしれない。
会社は面倒を見ない
こうした改革を行おうとすると雇っておきながら今更それはないとか、教育があって然るべきとか、前はああ言っていたじゃないか、という意見が噴出する。実際私も改革される側となれば文句の一言も言いたくはなるだろうが、感情的な面は置いておいて、ここにそもそもの勘違いがある。
教育は会社の厚意
日本では学校教育の先に就職という一連の流れがあるために、会社でも教育があって当たり前だと思い込みがちだが、会社というものは金を稼ごうとする同志が集まって分業することで効率的に収益を得ようという組織なので、究極的に言えば金を稼ぐだけの能力がない人間は不要なのである。
しかし、今現在そういった能力がないとしても、ある程度の教育を施せば将来にわたって有益な社員になるかもしれないという望みを託して行うのが会社における教育だ。したがって、教育の仕組みがあるのならば、それはありがたいことに会社の厚意でしかない。
新しい時代に乗るということ
少し前までは大企業に入れば人生安泰と言われていて、多くの就活生がとにかく大企業を目指した時代もあったが、今はどうだろうか?まったくその通りですとは言えない状況だ。大企業であっても他国に買収されることはあるし、人員整理も起きる。成り行き次第で明日自分の机がない可能性だってある。時代は目まぐるしく移り変わっていき、不変のものなどない。
個人の単位で見れば仕事もそうだ。新しい技術が生まれればこれまでの職がなくなり新たな職が生まれる。今はAIが私たちの死神となっているが、私の親の世代ではパソコンがそれで、大勢いた女性事務員はパソコンのような難しいものは使えないと多くが職を辞して扶養に入った。しかし、時代背景的に働かざるを得ない男性と、それでもしがみついた女性は会社に残ることができたと聞く。
こういう決断が迫られる段階に至っては会社は一切施しをしない。やるかやらないか(やれないか)だけで判断される。はたしてそのときにしがみつけるだけの能力は自分に残されているだろうか?
抵抗はできるのか?
技能や知識を身につけるといった技術革新の流れに乗った抵抗であれば可能だが、真っ向から対抗する方法ではやがて仕事は奪われると予想する。
属人化を盾にすることはできない
ある程度の規模の会社になると誰かが握って離さない仕事が見えてくる。その人も自分から言い出しはしないものの、何かその仕事にアイデンティティを感じているようだ。それがマネジメントや業務設計といった抽象的な仕事であれば問題ないのだが、実作業であればその人の稼働に影響されるような状況は解消したいので、置き換え可能と判断されれば、やがては死神部隊のガサ入れによって仕事を引き剥がされることになる。
優しい方法では業務ヒアリングになるだろうし、強引な方法では配置転換によって新しい担当者による業務知識の抽出が図られるだろう。しかし、一番つらいことはガサ入れ対象になってしまうことで、特定の業務に固執して会社の利益を妨げる人間と判断されることにある。
アイデンティティや存在意義というのは重要だ。それがあるから頑張れるし、やりがいが感じられる。とはいっても、時代の流れや人生の段階、職場での立ち位置に応じてその置き場所を少しずつ切り替えていかないと、そのうち外からの強い力によって新たな存在意義を与えられることになるだろうし、それは納得のいかない形でやってくる。
スローライフな職場に転職する
仕事を奪われたくないことに対する答えとして旧時代的なJTC2に転職するのもひとつだ。こうした会社では保守派が多くあらゆる変化に否定的だ。稟議や決済ひとつとっても無意味なほどに根回しや説明が必要で、とにかく話が進まない。結果として外界と5年から10年ほどの差があるので、改革が行われるのもまだ当分先のことになる。
しかし、これはやがて姿形を変えてやってくる決断を先延ばしにしているだけなので、老後の年金生活に逃げ切ることができないのであれば、あまりおすすめできない方法だ。なお、AIの導入によって雇い止めも始まっているようなので、こうした狙いがあるのなら最後のチャンスかもしれない。
農家になる
これは冗談ではなく、人間はごはんが食べられれば生きていけるので農家を目指すのも手だ。とは言っても今は農家も生き残りをかけた戦略の時代なので、自分で食べる以上に儲けようというのであれば、ただ土を耕しているだけでは難しいかもしれない。
ホワイトカラーのこれから
事務作業員でも成果は出せる
よく事務作業員は定常業務をすることが仕事だからそれ以上の成果は出ないとか、賞与が高くなり得ないという意見があるが、それは誤りであるし、今後は業務をしながらそれを俯瞰して捉える業務デザイナーになることが求められてきている。
つまり、業務を通してよりよい方法を模索、提案したり、誰でもできるように手順書を作成したりするだけでなく、啓蒙や教育活動により一般化すること、そして可能であれば自動化といった仕組みや枠組みづくりが重要になってくる。これらを行うには概念への理解はもちろん、適切な粒度で整理する能力、具体と抽象の切り分け等の論理的な思考なくしてはできない。
こうなるとみんながシステムエンジニアになれというようにも聞こえるし、あながち間違いでもないが、必ずしもプログラミングや詳細なシステム設計ができる必要はなく、これまでの「雰囲気でなんかいい感じ」や「誰かが考えてくれる」「私がこの仕事をやらなければならない」という甘えた思考をやめ、考えることを始めるだけだ。
もっと単純に言えば、自分がやらなくてもいい面倒臭いことは誰かにやらせるべきで、そのための言語化をしていくのだ。
AIに依存しすぎない
AIをうまく利用して成果をあげられない人間は淘汰されていくだろうが、AIに依存しすぎる人間も同じように淘汰されていく。至極当たり前の話で、AI以下の能力しかなかったり、AIに丸投げだったりであれば置き換え可能だからだ。
AIもパソコンのように手段であって目的ではないが、とりあえず指示すれば勝手に考えてズラズラと見解を述べて、何かしらの成果が出てしまうところに魔力がある。アウトプットが極端に加速した時代になったが、人間へのインプットの速度はこれまでと変わらない。自分が出涸らしになったことに気づかず成果だけを求めていれば、いつの間にかAIに依存することになりかねないし、そうした中身のない出力は見る人が見れば分かってしまう。根本の問題が解決していないのに、自分だけがAIと対話してなにかやった気になるAIドパガキ3やAI安楽椅子探偵になるための道はすぐ隣に用意されている。
プログラマも変わってくる
私もコードを書くことに一定のアイデンティティを持っていたようで、AIによる置き換えに対して最初は反発はしたものの、今では業務の大部分のコードをAIが書いているし、それは私の書くものとそう違わない。であれば、それは私が書いたコードなのである。
コードを書かなくなった分、私は設計やアーキテクチャ、デザインパターンを検討するために時間を使うことができるようになったし、主な業務がそっちに移り変わってきた。急な変化は感情的に整理しきれない部分はあるが、人間は現金なもので便利なものがあると意外とすんなり受け入れてしまうと実感した。
ただ、これまで以上にAIを使う側の能力が求められてきている。AIが生成したものは誤りを含むこともあるので、その真贋を判定できる力を養わないことには結局インターネット上の誰かが書いたコードを切り貼りしているのとなんら変わりがない。そうならないために今日も勉強をするのだ。