この記事は 創作系 Obsidian Advent Calendar 2025の16日目の記事です。

15日目は私PlasticHeartの「ObsidianをTRPGシナリオエディタとして使う
17日目はKoichiro Yamashitaさんの「Obsidianのためのショートカット設定」です。

2025年のはじめに私はObsidianという素晴らしいプラットフォームを見つけ、以来Obsidian Publishに知見を蓄積し続けている。今年のObsidian Advent Calendar 2025と創作系 Obsidian Advent Calendarでは僭越ながら多くの枠をいただき、すでに3つの記事を投稿した。

これらの記事では、なぜ私がObsidian Publishを使うのかという動機、Obsidian Publishとは何なのかという解説と事例の共有、どのようにObsidianを別分野に活用しているのかという応用例を紹介してきたが、ここではそもそもの話、私がどういった知識や判断のもとに文章を書いているのかという前段階の話をしていきたい。

私の実体験も含んでいるので、同じようにObsidianで知見や情報をまとめ始めたはいいものの、どうやって文章にしたらいいのか、どうしたら伝わりやすい文章になるのか、この日本語は合っているのかという本質的な部分で悩んでいる人がいれば、参考にしてみてほしい。

日本語の書き方って教えてもらったっけ?

私はとにかく感想文を書くということが苦手な子供だった。学校では読書をしたら感想文、演劇を見たら感想文、社会科見学に行ったら感想文といったように、ことあるごとに400字詰め原稿用紙を2枚渡されるのだが、30分経っても1枚目の半分すら埋めることができず、それでも毎回なんとか誤魔化して2枚目に入ったところで許してもらっていた。なんとか文字数を満たすために通常は漢字で書くような言葉をひらがなで書いたり、無駄に句読点を打ったりと今思い出すと見え見えの手口で笑ってしまうような無駄な足掻きをしていた。

それから何年も経ち、社会人になると感想文ではないが、やはり文章を書かなければならなくなった。メールに始まり仕様書、説明書、プレゼン資料、社内の掲示物、出張すれば出張記録、展示会視察の所感、なにかしらのレポート等々、これまで以上に文章での成果物を求められるようになる。そこで気づくのだが、頭ではいろいろと思っていることはあるのだが、いざ書き出してみると書けないのだ。文字数の制限がないのにも関わらず、「来た、見た、勝った」1程度の情報量しかない。なんて貧相で稚拙な文章なんだと落胆する。普段「わかる」とか「草」といったスラングでばかり会話しているので、なにが具体的に理解できて賛同しているのか、なにが興味を刺激されて面白いと感じているのか、明確に言語化できないのだ2

今書いてみた文章に目を落とすと、最大限努力して書いた文章にも関わらず、どうもしっくりこないのだ、なにかがイケてないことはわかるのだが、なぜそれがイケてないのかもわからないし、そもそもイケてないってなんなのだろうか。どこかを直せばよくなりそうだが、程度問題で根本的な解決はしなそうでもある。

そこではたと気づく。驚くべきことに我々は日本語を母国語としているにも関わらず、正しい日本語の書き方を教わっていないことに。学校教育で文章を書かされこそしたが、そのための文章の書き方を学ぶことはなかったのである。いわば見よう見まねで、みんなが書いている文章を真似ていただけなのだ。

日本語の正しい書き方

では日本語に正しい書き方があるのかと問われるとそんなものは存在しない。でも実際には何かしらのルールを参考にして文章を書いているはずで、適当になんかいい感じにしているわけではない。私がひとつ知るのは官公庁で採用されている公用文と呼ばれるもので、新卒で入社した会社の配属先の課長に「お前の文章はおかしい」と言われつつも教えてもらったものだ。

公用文というのは簡単に言えば国の役人が使っている書き言葉である。公用文は思ったよりも決まりが厳しく、学校で習った内容とは異なる部分もあるが、文章はそうやって書くのかという目からウロコの新しい発見もある。字面からして堅苦しい印象を受けるかもしれないが、慣れれば大したことはなく、むしろ理解しやすい文章になるので、仕事や趣味で文章を書き始めたものの、どうすればいいのかわからない人は是非一度目を通していただきたい内容になっている。

書店にも文章の書き方を示した書籍はあるが、インターネット上にも学びになる文献が公開されているので、ぜひ確認してみてほしい。この記事の内容もそれに沿ったものになっている。

テクニカルライティングのすすめ

公用文に近しいものとしてテクニカルライティング(技術文書の書き方)がある。これは技術的な内容を端的かつ分かりやすく伝えるためのものだ。誰が何をしたということを明示し、適切な文章構成によって曖昧な表現を避け、読み手によって解釈が分かれることを防ぐ。近年では図表を使った書籍や記事も増えてきて、視覚的に理解しやすくなったことは好ましい状況だが、それであってもどのようにその図表を読み取ればいいのかという説明が必要となるので、文章が免除されるということにはならない。ビジュアルコンテンツが溢れる時代になっても、文章を書く力は変わらず要求される。

日本語の書き方をまとめた本は新旧様々だが、言語も時代と共に変化していくものなので、なるべく新しいものがいいだろう。なかでも日本語スタイルガイドは文章への言及にとどまらず、コンプライアンスや法令にも触れており、一冊で幅広い分野に応用できる。

何かしら文章を書く創作活動をしている人の中には、もっと風流な言い回しをしたいとかエモい表現をしたいので、情緒もへったくれもないテクニカルライティングは私には必要ないという意見があるかも知れない。しかし、基本ができているから発展や応用が効くのであって、素振りをしない野球選手や剣道家はいないし、毎日の料理も基本ができるからアレンジができるのである。実戦で基本の型が出てこないことを指摘する人もいるが、型があるから見当をつけて戦えているのであって、それがなければうまくいくか分からないその場しのぎの我流で戦っているのと同じだ。

情報を伝えるということ

そもそも文章を書くというのは手段であり、その目的は情報を伝達すること、それによって相手に行動を起こさせることにある。詳しい状況を示したプロンプトでなければ生成AIが正しい結果を返さないように、人間であっても正確な情報を与えなければ書き手の思い通りに伝わらないし、行動の結果も不確かなものとなる。望まない事態を招くのだ。

「先生トイレ」に対する「先生はトイレではありません」は小学校でよく見られる光景で、俗に言うあるあるネタのひとつだ。言わんとしていることは理解できるものの、自分の要求を相手に正しく伝えられていない点で未熟であることがわかる3。大人になっても「言わなくてもわかってよ」という言葉はよく目にするが、情報を伝える先が他人である以上は、適切な言葉を用いて明確に意思を示さなければ伝わらないのだ4

テクニカルライティングは創作活動にも応用できる。文章を書いたりゲームを作ったりするような人であればもちろん、創作物の説明文やサークルの告知文にも役立つ。特にSNS社会になった今では、誤解を招く表現はそれだけで致命傷になりうる。書き手が意図していなくても読み手や社会通念上の解釈によってモラルや品性に欠けると判断されれば炎上を招くし、イメージの失墜にも繋がる。それだけ適切に情報を届けることの重要性はこれまで以上に増してきている。

社会人だから大丈夫?

こういう話をすると「私は社会人だから常識的な文章力は兼ね備えている」と思う人もいるかもしれないが、社会人が使うそれはビジネス言葉という限定された文脈における方言であることを思い出して欲しい。ビジネス言葉には敬語を使った丁寧な表現をするという大雑把なレギュレーションがあり、これに違反しない限りは文章として優れたものでなくても許される側面がある。

それにお決まりのテンプレートがあるので、文章を書いているというよりも、ビジネス言葉というプロトコル(形式)を使っていると表現したほうがしっくりこないだろうか。「株式会社〇〇 山田様 お世話になっております。△△の田中です」は宛先と文章の始まりを示すマーカーであるし、「以上、よろしくお願いいたします」は文章の終わりで、それ以降は無視して欲しいことを意味している。形式に沿った文章を書くことと、わかりやすい文章を書くことは別の技術なのだ。

理解してもらうことが大事

文脈

私はよく文脈(コンテキスト)という言葉を使う。もっと詳しく表現するなら、背景情報や常識、規律と表現されるようなことであり、その人の行動原理や判断基準となる知識を指す。口言葉的には「これまでの流れ」とも言える。

文脈は人によって異なる。「常識で考えろ」とか「常識的に」という言葉を耳にするが、この常識を巡って論争になるのは、それぞれが常識に求めるものの違いからくるもので、長年の人生経験や環境、社会との接し方に個々人で差があるからだ。家族であれば文脈の多くは一致するだろうが、それでも細部に至れば解釈が異なることもある。

家族ですら通じないことがあるならば、この記事のようにインターネット上の不特定多数に向けられたものは背景情報なしに伝わることはないと考えることが妥当だ。なんかすごそうなことや重要そうなことを言っていても、いまひとつ理解できない文章は文脈が不足していて読者に場面や状況を想起させることができていないのである。

Case 1. 裏のウチのタケさん

ひとつ文脈の例を出してみよう。私の実家では「裏のウチのタケさん」という言葉が出てくるが、これは私の家族の中でしか通用しない。読者にとっては裏がどっちの方角なのかもわからないし、そもそもタケさんが誰なのかという話である。それにタケさんからしてみれば自分の家の位置を私の実家起点では考えてはいないはずで5、タケさんの家の位置の理解はみんなで一致していない。

ここで必要になってくるのは、どうやれば「裏のウチのタケさん」が赤の他人にも伝わるのかを考えることだ。残念なことに私の脳内にある知識をコピーすることはできないが、それでもタケさんについて語りたい内容に対して十分なだけの要点を文章に書き興せばいいはずだ。例えば「タケさんは私の父方の親戚で、実家から見て南に2軒目の家に住んでいる」と言えば、私とタケさんがどういう関係にあるのかもわかるし、実家とタケさんの家との地理的な位置関係も伝わる。

Case 2. T君の通学路

私が中学生のころに授業参観があり、自宅から学校までの経路を説明するというゲームが開かれた。これに選ばれたT君は、「まず家から出て左に200m」「そしたらそこを曲がって500m」「で、右に行ってまっすぐ」のような説明をしたのだが、まずT君の家がどこにあるのかもわからないし、「そこ」が示すものがどこかもわからない。相対的にも絶対的にも目印となるものが提示されていないのだ。200mという数字は絶対的なものだが、これほどの長い距離を正確に測れる人はあまりいない。近くに目印がなければ迷うこともあるだろう。もし「ラーメン屋の角を曲がる」のような追加情報があれば、相互に情報を補完しあって理解も進むし印象にも残るのだが。

さて、T君は先生のツッコミもあり、なんとかクラスのみんなに通学路を伝えることができたが、そのころにはもうグダグダで、なにがどこまで正しいのかもわからなくなっていた。早い段階で正しい情報を与えることができないと、混乱を招いて正しい情報の価値すら失ってしまうのだ。

Case 3. タキザワさん

これは知人のAから聞いた愚痴なのだが、勤め先に「タキザワ」を名乗る人がきて、掛紙(のし紙)を依頼されたそうだ。世の中には名字にアンデンティティを感じる方も一定数いるし6、タキザワという名前自体、「滝」も「沢」も旧字体が一般的に使用されていることから、Aは「漢字はどの字ですか?」と聞いたそうだ。するとタキザワ様は「タキザワ」ですと答えたらしい。すかさずAが「タキは簡単な字のほうですか、難しい字のほうですか」と聞き返しても「だからタキザワです」と怒りながら答えるだけで、その後も「これじゃない、それじゃない」というだけで、あらゆるタキザワを書き続けてなんとか正解に漕ぎ着けたそうだ。

SNS上でも相手が理解してくれないことに対して嘆いたり怒ったりする人を見かけるが、その実正しく自分の意図や意思を伝えられていない。少なからず相手からは「何を言ってるのかわからない」といった反応をされるが、自己防衛として責任転嫁を行い、相手が汲み取ってくれないことのせいにすれば自尊心が保たれる。しかし、そこで面子を賭けて小さな勝利を得ても、またどこかで同じ過ちを繰り返すし、様々な場面で損をしていくのだ。

よくある話題

さて、ここまでつらつらと日本語の書き方と情報の伝え方、そして情報伝達の事例を紹介してきた。では具体的にどういった形で書けばよい文章になり伝わりやすくなるのかについて、ここからは公用文の書き方やテクニカルライティングでよく話題に挙がったり私の実体験で感じたりすることを挙げてみた。

考え方の根底に共通してあるのは、なるべく認知負荷を下げて脳が理解しやすい形にするということだ。あまり長くなっても飽きられてしまうし、すべては紹介しきれないので、日本語を書くということに興味を持ったらこれまでに紹介した文献をあたってみてほしい。

基本はSOV

「私はペンを持っています」。こんなわざとらしい文章はあまり書かないが、日本語はこのSOVの語順が基本形である。Sは主語、Oは目的語、Vは動詞である。面白いことに主語が抜けても日本語は通じる。この場合、暗黙の主語が採用されることになり、その解釈は読み手に委ねられる。状況によっては複数の解釈が生まれうるので、なるべく主語は省略すべきでない。

「持ち込まれたパソコンが故障していると判断したので、修理依頼を出しました」という文章は意図的に主語を抜いているのだが、誰が持ち込んだパソコンなのか、誰がどこに修理依頼を出したのかはわからない。もしこれがお客様サポートセンターで行われた会話であるという前提があるならば、客が持ち込んだパソコンであり、サポートセンターが修理業者に依頼したということが推測できるようになる。

また、語順を入れ替えると微妙に意味が変わることも意識すべきだ。どうやら日本語では先に書かれた言葉ほど強く表現したいことのように感じられる。通常はあとに続く文章で情報が補完されるので解釈に違いは生まれないが、言葉を減らすほど相手に推測させることになる。

  • 「今日、彼は早く学校に来た」(おそらく在校生で、今日であることを強調している)
  • 「彼は、今日早く学校に来た」(おそらく在校生で、彼であることを強調している)
  • 「彼は今日、早く学校に来た」(おそらく在校生で、彼と今日の組合せを強調している)
  • 「彼は学校に、今日早く来た」(在学生かわからないが、学校という場所に来た)

興味深いのは、最後の文章は学校という場所を強調していることで、ほかの文よりも在校生である度合いが低くなっている。語順によって微妙な差が生まれうるのだ。

受身形を避ける

最近の日本人はなんでも「させていただく」ことが大好きだ7。ビジネスの場面では敬語と受身の相性がよくついやってしまいがちだが、受身形は能動形の文章よりも理解が難しく厄介である。

  • 「機械語はソースコードからコンパイルされます」(受身)
  • 「ソースコードは機械語にコンパイルされます」(受身)
  • 「ソースコードを機械語にコンパイルします」(能動)

3つの文章は同じことを表しているが、一番端的に表現しているものは最後の能動形の文章だ。一見味気ないようにも感じられるが、語順と工程が一致しており、コンパイルがなにを示すかはわからないとしても、目を左から右に運ばせるだけで理解できる。ほかの2つの文章は受身であることから、行為の方向も逆転する上に、動作主が省略されていればそれを推測しなければならず、理解のために時間がかかる。

もちろん受身が自然な表現もあるし、無理に能動形にしろとは言わない。文章全体のバランスを確認して、受身の必要がなければ能動のほうがスッキリした表現になるはずだ。

曖昧な文章

曖昧な文章の中でも頭が赤い魚を食べる猫は秀逸な作品だ。状況からして可能性が低い読み取り方もあるが、これだけの文章で何通りもの解釈ができることを目の当たりすると、日本語の曖昧さを思い知らされる。端的に表現することに専念しすぎて言葉を繋げるだけだと、こういった問題を引き起こしかねないが、意外と書いている本人にとっても気づきづらい。

そういえば、以前通りかかった公園に「バットを使った野球やサッカーで、近所の方や公園利用者に迷惑になる行為は禁止します」という注意書きが貼られていたのだが、これにも複数の解釈が考えられる。

  1. (バットを使った野球) OR (サッカー)で、迷惑になる行為が禁止
  2. (バットを使った野球) OR (バットを使ったサッカー)で、迷惑になる行為が禁止
  3. (バットを使った野球) OR (サッカーのうち迷惑になる行為)が禁止

私は2番目の解釈が好きなのだが、最近はそもそも公園で遊ぶ子供をめっきりみなくなったので何が正解なのかは今のところ判断がついていない。なお、2番目の文章ではバットを使わないサッカー、3番目の文章では迷惑にならないサッカーなら禁止されないというルールの抜け穴もある。

敬語はほどほどに

私もそうだが、ビジネス言葉を使っていると、どこまでやれば丁寧で失礼なのかわからなくなることがある。ふんだんに敬語が散りばめられた文章を見ても要点が掴めていないと内容がないスカスカの文章に感じられるし8、要点が書かれていても淡々としすぎていれば対人コミュニケーション初心者と相手をしている気分になる。

なので、とにかく丁寧であればいいわけではなく、適切な度合いを見極めなければならない。文章というのは同じ言葉を繰り返すと語呂が悪く感じられるので、そういうときは思い切って敬語を諦めてもいい。例えば「お見積りのご依頼をいただき~」は見積りと依頼の両方が丁寧になっていて少しくどい。見積りに注目すれば「お見積りの依頼をいただき~」でいいし、あるいは依頼に注目して「見積りのご依頼をいただき~」でもいい。

適切な表現

ある事象や行動を表現する際には、より文脈に沿って適した言葉を選ぶと、文章あたりの情報量が多くなり、追加の情報を読み手に与えることができる。例えば文章を書くという行為に関しては次のような表現ができる。

  • 「文書を記述した」(書いた)
  • 「文書を作成した」(新しく書いた)
  • 「文書を修正した」(誤りを直した)
  • 「文書を訂正した」(誤りを直して正しい表現にした)
  • 「文書を更新した」(なにかしら書き換えた)
  • 「文書を改訂した」(なにかしら書き換えて新しい版を出した)

ときには適した言葉を使うだけでは足りず、適した範囲や集合も気にしないといけないこともある。「基本はSOV」の項で主語を明確にするといいとしたが、主語を書いてもそれが不必要に大きければ、解釈が異なるし反感を買うこともある。

ジェンダー論争で頻出する「男は」「女は」議論はわかりやすい。男(女)のうち、ある条件に当てはまる人が一定数いることを男(女)全体に一般化することは、合致しない人からすればこうしたレッテル貼りは不快なものである。なるべく主語や状況を限定すると、一般論ではなく特定条件下で成り立つできごととして伝えることができる9

  • 「男は気遣いが足りない」(一般的な男に対する言及)
  • 「私が知る男は、気遣いが足りない傾向にある」(観測範囲の男に対する言及)
  • 「私の弟は、こと私に対しては気遣いが足りない」(弟に対する言及)

限定すればするほど立場や状況が明らかになるので、説明的でもあるし他人が反論する余地もなくなる。結果的に持論を展開しやすくなるといった嬉しい作用もある。

二重否定

二重否定は口語の言い回しとしてよく登場する。ある事象を指して「正直それはありえなくもない」と言った場合は若干の肯定を意味して、「多少ありえる」という解釈になる。慣用句的なものであれば共通認識があるので、大きく文脈がずれていない限りは伝わるが、そもそも否定という行為自体に大きな効力と曖昧性がある。次のふたつの文章を見てみよう。

  • 「この機能は夜間以外に使用しないでください」
  • 「この機能は日中にのみ使用してください」

このふたつの文章について少なくとも書き手は同じことを表していると思っているかもしれないが、最初の文章はふたつめの文章よりも理解が難しい。理由の一つ目は「夜間以外」の部分で (1日) - (夜間) = (?) の計算が必要になるからだ。1日という言葉は文章中に出てはこないが、これは夜間が含まれる集合がなんであるのかを推察した結果だ。概念によってはこれ自体を求めることが難しいかもしれない。

「1日」と「夜間」との差をとり、おそらく結果として早朝・日中・夕方を得る。しかし、続く文を読むと「使用しないでください」とある。ここでまた今の計算結果をさらに否定しなければならない。これが理由の二つ目だ。最終的な論理は NOT ((1日) - (夜間)) = (?) となり、これを計算するには脳に大きな負荷がかかる。

追加の三つ目のステップとして、これが正しいかの検証も行うことがある。つまり、上に挙げたふたつの文章が論理的に一致しているかどうかである。差集合の計算をしたときに、曖昧な結果になるものについては、二重否定が肯定形の文章と同じにならないこともあるかもしれない。

客観的に捉える

文章を書いているとその主体は自分なので、どうしても主観が入った文章になりがちだ。持論が正しいと思っているし、自分の尺度でものを捉えてしまう。西村博之氏の「それってあなたの感想ですよね」はあまりにも有名だが10、主観を並べることができる感想文でもない限り、主観に基づく話の展開は避けるか、持論を後押しする理由を提示したほうが納得や賛同が得られるはずだ。

中には自分以外の誰かが言ったことであれば、それが証拠になると考えている人がいて、特定の権威や学術的地位のない、個人的な尊敬の対象やインフルエンサーの発言を証拠として提示する姿も見られるが、信頼性や専門性の観点で劣るし、単なる一意見の伝聞に過ぎないこともある。自分に都合の良い情報だけを提示するチェリーピッキングにならないよう、多角的な視点で捉えることを意識する。

また、「かなり」や「多い」のような、人によって度合いの解釈が分かれる表現もあるので、何と比較して多いのか、あるいはおよそ同じくらいなのか、比較対象や絶対的な値を示さないと他人にの理解を得にくくなる。「本日は多くのアクセスがあり繋がりにくい状態です」よりも、「本日は平常時の10倍のアクセスがあり繋がりにくい状態です」のほうが、アクセス数がどのくらいサーバーに影響を与えるのかはわからないにしても規模は伝わりやすい。

便利すぎる表現

「場合」は(1)条件、(2)状況や場面、(3)可能性として使える魔法の言葉だ。語彙が少ないと「打撃系武器がクリティカルヒットした場合には、敵が装甲を持っている場合、装甲を無視するだけでなく、追加のデバフ効果が発生する場合がある」。のような稚拙な文になってしまう。こういった文は単語だけ差し替えても改善しないことが多いので、語彙力や言い回しを鍛えて、根本的に表現を見直さなければならない。ほかにも「エモい」や「ヤバい」等々、口語でもよく使われる便利な言葉は具体性に欠けるので、よくよくそれが何を示しているのかを明らかにする。

「~〇〇すること」という動名詞的な表現にも注意したい。意識していないと「こと」に文章が汚染されてコトコト煮込まれ始める。対処は簡単で「すること」が不要であれば単純に省ける。

  • 「運転前の飲酒は避けること」
  • 「運転前の飲酒は避ける」(「こと」を省く)
  • 「飲酒したら運転しない」(言い換える)

Obsidianで文章を書くときは

と言ったように、こんな感じのことを考えつつ私は文章を書くようにしている。とりわけObsidian Publishで全世界に対して妄想にまみれた拙文を垂れ流しているので、少なくとも「書いたやつのお里が知れる」状況は避けたいと考えている。お陰様でこの記事を書くにしても10時間以上を費やしている11

こうした事情を踏まえて、次は実際に文章を組み立てていくにはどうしているかについて話したい。Obsidian Advent Calendarの参加者を見れば、文章を書くにあたっていろんな方法を用いているようだ。生成AIを使って壁打ちをするもの、Canvasを使うもの、フレームワークを使うもの等々あるが、私は次のような手順で書いているので、これもまた参考のひとつにしてほしい。

書き出してみる

私が文章を書くときには、とりあえず書きたいと思った内容をメモ書きするところから始まる。ひとことのこともあれば、ある程度意見としてまとまっていることもあるが、多くても2~3行程度で結論とその推察が端的に表現されている。

そこから発想を膨らませるのだが、使うフレームワークとしてはほぼ「なぜなぜ分析」12ひとつである。なぜをそれをしたいのか、なぜその考えに至ったのか、なぜその主張が正しいのか、自分に向けてひたすら「なぜ?」を問いかけていく。

よくなぜなぜ分析は人に向かっては使ってはいけないフレームワークと言われているが、自分が相手なので問題ない。ひたすら自分にパワハラしていく13。最初から文章を興すのが得意ではない人にとってはさいわいCanvasというツールがあるので、そこになぜなぜツリーを生やしていくといいかもしれない。結果は同じだ。

追及をされれば人間嫌でも何かしらの意見は出てくるので、これを部品にして組み立てていくだけだ。自分を詰めれば詰めるほど部品が多くなって書きやすい。適宜書いた内容の正当性や妥当性を示す補足情報も追加していくのだが、ここで公用文の書き方やテクニカルライティングの技術が役に立つ。

公開してみる

何回か書いた文章を見返して良さそうだと思ったらさっそく公開する。Obsidian Publishを契約していればボタンひとつで簡単に発行できる。もし夜に書いたものあれば公開するのは明日まで待ったほうがいいかもしれない。夜中の手紙を出すなと言われるように14、どうせおかしいところがある。

しかし、ここからが本当の文章作成のはじまりである。一度公開してしまったものはもう後戻りはできない。ことあるごとに文章を見返しては本当に恥ずかしくない文章なのか、わかりにくい表現がないか、抜けている言葉はないか、誤字脱字はないかをベッドの中、電車の中、トイレの中で時折読み返して、修正点があればすぐさま直して再度発行していく。

内なる悪魔

「なんてことだ、お前の駄文が全世界に発信されてしまった。よくもまあこんな書いた人間のお里が知れる内容を公開できたものだ。文法もめちゃくちゃだし、論理も破綻している。読むことすら人生の無駄遣いだが、紙に印刷されなかった分まだエコだな」

実際書いているときには素晴らしいと思っていても、あとから見返せば足りない部分が出てくるのが常だ。Obsidianは思考整理ツールの役割も兼ねているので、1週間後や1ヶ月後の自分が見てわかりづらい部分があれば直せばいいし、追加情報があれば付け足せばよい。そうやってより洗練された知識に成長させていくことができる。

生成AIって使ってる?

ほとんど使っていないというのが正直なところだ。生成AIはあらゆる側面から総合的に意見することができるので、事実として優等生である点は認めている。しかし、多少偏見が入っていたとしても人間が書くような面白い文章は書けないし、「テフをオフチョベットしたものをマブガッドしてリットを作る15のような自分が知らない単語を繋げた内容になりがちなので、使うにしても最小限となるように留めている。

要点だけ伝えられたとしても、そこに至るまでの動機や過程がないと共感や納得は得にくいし、それを語るのは人間にしかできないことでもある。特にアドベントカレンダーのような企画においては、原義からしても楽しみやワクワク感がないといけないと感じているので、個人的にはそれぞれの物語を聞かせてほしいとも思うのだ。

序文とまとめは難しい

記事の本題は書けるのだが、その議論に持っていくまでの最初と最後のおしゃべりの部分はまだまだ訓練が必要と感じている。私の中で答えが出ていないところでもあり、他愛ない内容から本題に入りこむことと、そこから抜け出してお別れの言葉を伝えるにはどうしたらいいか、ということにいつも悩まされている。こういうことは生成AIのほうが向いているのかもしれない。

まとめ

今回は私が学生時代から抱えていた文章作成の苦手意識をきっかけに、公用文やテクニカルライティングの重要性について解説してきた。最後に簡単ではあるが私の文章作成方法についても紹介した。あれほど文章に苦手意識を持っていた人間が、今やそのことで頭がいっぱいなのはなんとも皮肉な話である。

現代では短文コミュニケーションの普及によって文章を書く機会は減る傾向にあるが、言語化の重要性は高まってきている。特に思考や知識をObsidianなどで集約して活用・発信する人にとっては、情報の価値を高めることにも繋がるので、一例として参考にしてもらえたら幸いである。

さあ、みんなでバットを使ったサッカーしようぜ!

Footnotes

  1. ユリウス・カエサルが戦争の勝利を伝えるために送った書簡。

  2. 「それな」。

  3. 先生をトイレ扱いしていたとしてもなお不明瞭な発言である。

  4. もちろん言われているように、ある程度は察する能力も必要である。

  5. 私がやんごとなき身分でもない限りは。

  6. 絶対に譲らない人もいるし、諦めている人もいて、本人に話を聞くとそれぞれに興味深い物語がある。

  7. やらないといけないことに対して「させていただく」はおかしいと常々思っている。

  8. 「お願いいたします」「お願いいたします」「以上、お願いいたします」。

  9. それでも都合のいいところだけを切り取ってくる輩はいる。

  10. 小学校で流行っているらしく、教員が困っているとのこと。

  11. これを書いたあとも改訂されていくかもしれない。

  12. トヨタ生産方式のひとつで、要因分析の手法。

  13. 理由を聞かれると批判されていると感じる人には向いていない。

  14. 深夜テンションも似たようなものか。

  15. インジェラの作り方。